カテゴリ:物語( 4 )

ホワイト&ブルー

 独りの昼食の後、食器をシンクへ下げた時、コーヒーを淹れようと食器棚を覗いた。
 ふと、奥に押し込んでいた白磁のマグカップに目が留まった。
 その仄かな暗がりに記憶の断片が浮かび上がるような感覚があった。

 そのカップは無地で結構な大きさがある。
 形は底が丸く厚めで、優美な曲線を描きつつ上部へ向かって薄くなる、やや広口のものだ。

 以前、お気に入りでよく使っていた。
 スープにもコーヒーにも、ただの水を飲む時でさえ使っていた。

 更にその前はブルーのプラスチックマグを使っていた。
 これも大きくて、たくさん入る。
 完全な円筒形で、そこにまた完全な半円形の取っ手が付いている、シンプルなデザインだ。

 特に気に入っていたわけではない。
 単に軽く、壊れにくく、量が入るというそれだけの理由で100円ショップで買ったものだ。

 それを向かい合ったソファで使っていると、いつもそこにいて前髪を気にしていたマヤは、何か思い出したようにニッコリと笑って

「そんなのより、これ使いなよ」

 と、きれいにギフト包装されたものを、かわいいかばんから取り出し、わたしの胸に押し付けた。
 それが、白磁のマグカップだった。

 特別な日でもなんでもない時に貰ったので少し動揺した。

「ありがとう。嬉しい。でも、どうして」

 間髪入れずに返答があった。

「それがスミレに似合うと思ったから、買ってきちゃった。だって、そっちのプラスチックのって子供っぽいじゃん」

 マヤはまた屈託のない笑みを浮かべた。
 その笑顔にわたしは幾度と無く救われた気持ちになったものだ。

「だったら、せっかくなのだから、ペアカップにすれば良かったんじゃないか」

 可愛い顔をしかめるマヤ。

「ダッサ! そういうことじゃないの。ホント、スミレは自分のこと、テキトーなんだから」
 
 よく解らない。
 彼女はソファから腰を浮かせて、テーブルに手をついた。
 わたしの眼を見つめる。

「スミレ、あんたはきれいだしカッコイイし、個性的で、あたしの持ってないもの全部持ってる。だから、スミレはスミレでいいんだよ。あたしのとこまで降りてこなくていい」

 ショートボブのマヤの瞳に、長い黒髪のわたしが映り込んでいる。
 顔が近い。

「ずっと憧れさせて」

 彼女はささやくと同時にわたしの唇を奪った。

 うるむ瞳。
 激しい動悸。
 熱い吐息。
 火照る肌……。

 記憶の奔流から我に返ったわたしは、食器棚の奥から、白磁のマグカップを取り出した。

 人の心は変わるものだ。
 マヤとわたしの関係も、今は形骸化したトモダチに成り果ててしまった。

 どちらかが誰か別の人を好きになった、とか病気や事故で死んでしまった、などというドラマや映画でありがちな結末ではない。

 お互いの気付かない内に、ひっそりと音も立てずに、その恋は死んでいたのだ。
 この白磁のマグカップにいつの間にかヒビが入り、縁が欠けていたように。

 わたしはそれをまた食器棚の奥に仕舞い込んだ。
 代わりに最早使い古された、しかし永遠にヒビなど入らない、ブルーのプラスチックマグを取り出し、コーヒーを淹れた。
[PR]

by suku-ru | 2015-05-31 14:44 | 物語 | Comments(0)

卒業

 高校の卒業式が終わったその日でも、わたしと先輩はいつも通りに行動した。
 コンビニに寄って、ゲーセンに寄って、ファーストフードに寄って……。

 今、わたし達は穏やかな一日が暮れようとしている河原の通学路を無言で歩いていた。
 どこからともなく風に乗ってやってきた桜の花びらが舞っている。
 西日がそのピンクを強めていた。

 それをぼんやり、目で追っている先輩に、わたしは何か儚げなものを感じ、呼び掛けた。

「先輩」

 わたしは外では彼のことを名前で呼ばない。
 なぜなのか、自分でも良く解らないが、呼べないのだ。

 羞恥心、というものかも知れない。
 彼には、おまえにそんなものはないと良く言われているが、失礼な話だ。

 彼はわたしに優しい眼差しを向けて、軽く、ん? と聞き返す。
 そのほんの少しの音だけでも、わたしの心の奥底に響くものがある。

 私はこの人が本当に好きなのだ、と思う。
 だが、彼は今日、卒業してしまった。

「わたしは後輩ですから、遠くの大学に進むあなたには、ついていけません」

 彼はただ、ああ、とだけ答えた。
 その返事からは、彼の心は見えなかった。
 わたしは、胸が苦しくなっていた。

「ですが、今日が最後ではありません。来年は必ずあなたの元へ行きます」

 それは自分自身を励ますかのような言葉だった。

「お前の学力なら俺が行くとこなんかより、すっげー上の学校に行けるだろ。俺に合わせなくていいよ」

 彼の返した言葉を一瞬、理解出来なかった。
 もう、彼にとってわたしは必要ないということなのか。
 わたしは震える膝を抑えながら訊いた。

「それはわたしからも卒業したい、という意味ですか」

 彼は意外そうな顔をした。

「いや。お前こそ、この際、俺なんかから卒業したほうがいいんじゃないかって」

 そのセリフで彼の考えが解った。
 わたしの将来の心配をしているんだ。

「黙って下さい」

 私は彼の頬を両手で挟むと、口づけをした。

「んんっ?!」

 驚く彼。
 いつまで経っても、わたしの行動に慣れないようだ。

「……んはぁ……」

 唇を離すと、唾液を手の甲で拭い、彼の目を見つめた。

「例え、わたしがマサチューセッツ工科大学に進めたとしても、あなたがいない場所に意味などないのです」
「……ホントにいいのか、それで」
「ええ。それが、良いのです」

 それが、いい。

 わたしは、あなたと居たい。

 いつまでも、ずっと。

「おまえ……バカだよ。俺について来たって、ろくな人生送れねーぞ」
「それは大丈夫です」

 当然だ。
 良い伴侶があれば、多少の困難など大した事ではない。

「まあ、確かにあなたと正式に付き合い始めてから一時期、成績は下がりましたけれど」
「う……」
「でも、あなたと付き合って、あなたと過ごした時間が教えてくれたことは、両親や先生からはとても学べないものばかりでした」

 そう、あなたからもらったものは、有形無形共々、大事に持っている。
 形のあるものは、プレゼントの包装紙まで綺麗にたたんでおいてあるし、精神的、肉体的なものは、心の宝箱に全て大切にしまっている。

「そういう意味で、わたしの人生はあなたと共に始まったと言っても過言ではありません。だから、わたしの人生はあなたと共にしか有り得ないのです」

 私は彼の胸元を人差し指で突くような仕草をした。

「……そ、そうか」

 わたしは微笑むように頷いた。

「ええ。あなたと一緒にいる時の和やかで温かな気持ちや、あなたと離れた時の何も手につかないほどの寂しさ、そして、――」

 わたしは調子に乗っていた。
 得意げな顔をして、彼に背を向ける。
 夕日が眩しい。
 その光に、大きな声で歌うように言った。

「あなたに抱かれた時の、驚く程の激しい感情の昂ぶり、陶酔と恍惚感、果てるまで求め続けてしまう肉体的快楽は」
「わーっ!!」

 彼は後ろから抱きつくように、わたしの口を手でふさいだ。
 お互いの顔がすぐ横にある。

 わたしはそっと彼の手に手を重ねて、自身の口からずらす。

「……こんなやりとりも、今日で終わり、ですね」
「クー?」

 彼のぬくもりがわたしの背中から、ゆっくりと伝わってくる。
 その優しい体温を味わう機会がもう失われるのかと思うと、たちまち涙が溢れてきた。
 瞳からポロポロと大粒の輝きがこぼれ落ちる。

「すみません……」
「クー……」
「寂しい、です。さ、みしいです、よ」

 わたしは振り返ると彼の腕の中で、静かに泣いた。
 小さな子どものように震えて、彼の胸元を強く、痛いくらいに掴んで。

 どのくらい経ったのか、日は完全に沈んでいた。
 空はオレンジ色から藍色を濃くしていく。

「クー、落ち着いたか」
「……はい。最後にとんだ迷惑を掛けました。すみません」
「最後、じゃないんだろ」
「ええ。そうですね。勿論です」

 少し離れて、顔を上げたわたしはいつもの顔つきを装った。
 だが、まだ眼は潤み、頬も赤い気がする。

 私はそれを誤魔化すように言った。

「では、約束の品をもらいます」
「ん? ごめん、なんだっけ」
「これですよ、これ」

 わたしは彼の制服の第二ボタンをつついた。

「あ、ああ。そういう約束か」
「そうです。お約束、というものです」

 そう言うと、わたしはカバンに常備している裁縫道具からハサミを取り出した。
 彼の第二ボタンに手を伸ばし、ハサミをかまえた。

「この好きな人の第二ボタンをもらうという行為は、これが心臓の一番そばにあるから、あなたのハートを頂きますという意味なんだそうですよ」

 ちょっとしたいたずら心で、わざと声のトーンを落としてつぶやくように言う。

「あ、ああ。なんか聞いたことはあるな」
「いっそ、本当にあなたの心臓を頂きましょうか」

 キラリと光るハサミを、すっと彼の胸元に近づける。

「やめろ、冗談に聞こえん」
「さすが先輩。良く冗談だと解りましたね」

 パチンと音がして、彼の第二ボタンはわたしの手の中に入った。

「はい、これで良いです。ありがとうございます」

 わたしはハサミを裁縫道具の中にしまった。
 手の中でやや赤みがかった金色のボタンが、キラキラと光る。

 彼の、思い出。

 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、全く自分では制御出来ないほどの寂寥感が押し寄せてきた。
 このままではまた、泣く。泣いてしまう。
 別に今生の別れというわけでもない、ただ、彼が先輩で、卒業して、もう毎日会えないというだけ、それだけ、なのに。

「では、今日はこれで失礼します」

 何とかその感情の奔流を抑え込み、それだけ言うと軽く頭を下げ、踵を返す。
 そのままスタスタと歩き出す。

 彼にこれ以上、泣いているわたしを見せたくない。
 心配させてしまうじゃないか。

「ちょ、送っていくから」

 と、彼はわたしを追い、わたしの肩に手を掛けた。
 その時の彼の表情は驚きとともに、慈愛に満ちていた。

 最早、わたしはまた、ボロボロと泣き、頬を濡らしていた。

「もう。見ないで下さい」
「ホント、おまえはバカだ」

 彼はわたしの肩を抱き寄せながら、一緒に歩き始めた。
 空には一番星が輝いていた。
[PR]

by suku-ru | 2013-03-31 10:26 | 物語 | Comments(0)

バス停

 坂の途中にあるバス停で、青年がバスの時刻表を見上げていた。
 じっと立っていると、まだ少し寒い春。だがもう日差しはその強さを増していて、眩しい。
 バス停の後ろにある団地には桜が微笑むように咲いている。その桜から、はらはらと花びらが舞い散って、彼の目の前をふわりと通り過ぎていく。
 彼は何気なくそれを目で追った。
 すると、その先の坂道に少女がいた。中学生くらいか。細い身体にボーイッシュな髪で、勝気そうな瞳が印象的だった。
「翔子、ちゃん?」
 彼は思わず、その少女の名を口にした。
 少女は無表情、いや、どちらかというと怒りにも似た表情で彼を睨みつけた。
「何であんたがここにいるの」
 低く押し殺した声でつぶやく。だがそれは彼には聞こえなかったようだ。
「え、何?」
 その間抜けな質問を、翔子と呼ばれた少女は無視し、スカートの裾を手で押さえながらベンチに座る。そしてすぐ、腕と足の両方を組んだ。何かを拒絶するような格好だ。
 青年はその態度に苦笑いを浮かべ、黙り込んだ。
 
 しばらくの間、舞い散る桜の花びらと時折通る車の音だけが時の流れを示した。

 少女は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。溜息だろうか。
 やがて、ハッキリと聞こえる声で言った。
「アキラさん」
 ビクッとする青年。どうやらアキラとは彼の名前らしい。
「え、何?」
 翔子は、先ほどと全く同じセリフを吐いた彼には一瞥もくれず、真っ直ぐ前を向いている。
「何で、今更、あなたが、ここに、いるんですか」
 一つ一つの言葉を強調するように切りながら話した。さながら詰問のようだった。
 アキラは鼻の頭をこすって、返答する。
「何でって……たまたま、かな……」
 翔子は吐き捨てるように言った。
「嘘つき、サイテー、バリキモ!」
 ちなみにバリキモとはバリバリキモいの略である。
 アキラはまた苦笑いを浮かべた。
「ば、バリキモって……ひでぇな」
 その言葉に翔子は反射的に立ち上がって、彼の方を向くと叫ぶように捲し立てた。
「だってそうじゃん! まだお姉ちゃんの事、あきらめらんないんでしょ! だからここに来たんでしょ! 違うの!?」
 その突然の勢いに圧され、息を呑むアキラ。やがて、その呑んだ息を吐くと、悲しげな表情になった。
「……翔子ちゃんは、あの頃から言ってたよな。俺とアイツの事なら何でも解るって……ホントだな」
 翔子の声は震えていた。
「もう……あれから一年だよ。わたしも中二だよ。何なの! お姉ちゃんだってもう別の人、好きなんだよ! 何なの、これ!?」
 翔子はもうほとんど泣いている。アキラはただ、悲しげな顔のまま、無言で俯いていた。
「あー、もう! 頭ぐちゃぐちゃだよ! わたしはわたしが嫌い! こんなのわたしじゃない! 何でよ! なんで今更……!」
 翔子はアキラの胸元に、体ごとぶつかった。彼は驚いた。
「えっ?!」
 慌てるアキラの胸を叩きながら、翔子は泣きじゃくる。
「嫌い、嫌い、嫌い……っ!」
 嗚咽しながら、言葉を続けた。
「うう、バカぁ、わたしのバカぁ……うう……」
 アキラの顔から驚きは消え、その表情は憂いを含んだものに変わった。
「そう、だったんだ……。翔子ちゃん、俺の事……」
「気付かなかったの! 気付くな! バカぁ!」
 その支離滅裂な言葉こそが彼女の気持ちなのだろう。
 アキラは何もせず、ただ立ち尽くす。
「ごめん……」
「謝んな!」
「うん……でも、ごめん」
「分かってる! 帰れ!」
 翔子はアキラを突き飛ばすように、腕を伸ばした。わずかによろけるアキラ。
「っと。うん。帰るよ、バスが来たらね」
 その悲しげな笑みを浮かべたアキラを、また睨みつける翔子の瞳はしかし、涙目で、顔も真っ赤だった。

 少し距離の開いた二人の間に、柔らかな風が吹いた。ひらりと桜が舞う。
 丁度その時、バスのエンジン音がした。バスが停まり、軽い空気音と共に後部ドアが開く。
 アキラはそのステップを昇ろうとして、翔子に声を掛けた。
「乗る?」
 翔子は顔を横に振った。
「そう。じゃあね」
「ふん」
 アキラはまた悲しげに笑うとステップを昇り、バスに乗り込んだ。ほどなくドアが閉まった。バスは警笛を鳴らすと、緩やかに走り出した。地に落ちていた花びらがまた、舞う。

 翔子はその桜の中へ消えて行くようなバスを見送った。
 泣くのを我慢するような、口元をギュッと結んだ顔で。
[PR]

by suku-ru | 2012-04-10 09:07 | 物語 | Comments(0)

しっぽ

 小春日和の昼下がり。公園のベンチに初老の男性が独り、腰掛けている。
 初老の男性、と書いたがそれは我々のよく知る“人間”ではない。トカゲと人の中間のような生物だ。この世界での人は、そのような姿をしている。誰もが皆、様々な長さと重さの尾を、後ろに垂らしながら生きている。

 その男の尾は太く大きく立派だった。そしてまた非常に重そうでもあった。
 男は虚ろな眼で、只、空を見上げていた。それは無情に時が過ぎて行く事にさえ、苦痛を感じなくなり、受け入れてしまっているというような瞳だった。

 そんな彼の元へ、元気そうな少女が真っ直ぐ駆け寄って来た。
 彼女のスカートの後ろにある隙間から、ちょこんと生えている小さな尾には、赤いリボンが揺れている。それは彼女が頭につけているものと同じだった。
 
 彼女はニコニコと男に話しかけた。
「おじちゃん、こんにちは!」
「あ? ……ああ、こんにちは」
 彼は我に返って、少女に眼を向けた。少女はキラキラと光る眼差しで彼を見た。
「おじちゃんのおしっぽは、大きいね。長いね。あたしのおしっぽは、こんなにちっちゃいのに」
「ああ……そうだね。私のしっぽは確かに見た目は立派だね。でも重くて硬くて、走る事もできなくなってしまった。自由に動かす事もできないよ」
 少女は納得したように大きく頷く。
「そっかー。だから、ずーっとここで、座ってるんだね、朝にもここにいたもんね」
「ああ、そうだよ。最初は、ここにいるのが嫌だったけど、今はもう慣れた」  
「ふーん……」
 少女は眉根を寄せて何か考える。そして閃いたように手を叩いた。
「あ、じゃあ、おしっぽ、切っちゃえばいいんじゃない?その気になれば、いつでも切れるって、お向かいのおじちゃんに聞いたよ。切れば、また生えるんだって」
 その少女の、とてもいい事を思いついたという顔に、男は笑って答えた。
「ははは。そうだね、その気になればいつでも切れるけど」
「けど?」
「もの凄く痛いんだ」
「そうなんだ。痛いのは嫌だね」
 少女は顔を曇らせた。男は言葉を続ける。
「それにね」
「それに?」
「再生したしっぽにはもう、骨がなくなるんだよ」
 少女は頭を傾げた。
「痛いのは怖いけど、骨がなくなるのも怖いの?」
「うん、怖いね。とっても怖い。この重さ、長さは骨があるから、意味があるんだ」
「ふ-ん?」
 彼女は良く解らないという顔で返事をする。
「でも、それでも、お向かいのおじちゃんは、しっぽを切って凄く楽しそうだったよ? スキップしてた」
「そうかい。でも本当は、痛さを隠そうとして無理矢理、楽しそうにしているのかも知れないよ」
「えー? そうなのかなぁ」
 男は寂しそうな笑顔で地面を見た。
「それに私には、その人みたいに、しっぽを切って捨てちゃう勇気はないんだよ。痛さに、怖さに耐えられそうもないから」
「そっか……。誰でも痛いの、嫌だもんね」
 男は顔を上げて、少女を見つめた。
「お嬢ちゃんも、いつかしっぽを切りたくなる時が来るかもしれないけど、その時はよく考えてから、決めるんだよ」
 彼女はニッコリと笑って答えた。
「はーい。でも、あたしには、そんな時は来ないと思うよ。だって、あたし、自分のおしっぽ、大好きだもん」
 少女はお尻をちょっと男のほうに向けて、その愛らしい尾を男に見せると、すぐにはにかんで笑った。
「へへへ。可愛いでしょ?」
 男は少女を眩しそうな眼で見た。
「うん、うん。そうか、そうか。大好きなんだね」 
「うん! 大好き! あっ、もう夕方だ。じゃあまたね! おじちゃん!」
 少女は大きく手を振って、街の方へ駈け出していった。ここへ来た時と同じように真っ直ぐに。
「ああ、じゃあ……」
 男は聞こえるかどうかの呟きと共に、軽く手を上げた。
 
 少女が見えなくなると、男はまた、顔を空へ向けた。
 茜色を帯び始めた世界は、その温度を急速に下げていく。
 男は眼を閉じた。時の狭間に漂うように、ゆっくりと。
[PR]

by suku-ru | 2012-04-02 11:08 | 物語 | Comments(0)